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2007年も既に半月ほど経ってしまいましたが、
遅ればせながら、みなさま明けましておめでとうございます。 また少しづつブログをアップしていきたいと思っております。 本年も宜しくお願いします。 # by sot-yasuno | 2007-01-17 01:30
映画監督 吉田喜重の作品が再評価されているそうです。
某ウェブマガジンに、吉田監督のインタビューが掲載されていました。 映画を志す若者へのメッセージで、締めくくられています。 「たとえば、親しい仲間が集まって自主制作の映画を作る、 しかも簡単にできてしまう。そのことが問題なのです。 その出来上がった作品を、誰に見せるのか。 仲間同士で見る、あるいは見せ合うだけであれば、 自己満足的な、閉ざされた映画になってしまう危険がある。 この場合、是非考えなければならないのは、 映画を作った人と、作られた映画との関係です。 たとえ映画を作った人間であっても、 それはこういう意味の映画ですと、表明することができない。 それが映画なのです。 (中略) みずからの映画を観客の眼にさらすこと、 そして批判を浴びることによって、 その作品が何であったのか、ようやく意味が分かってくる。 そのとき、映画ははじめて命を吹き込まれ、息づくことになるのです。」 コミュニティー化が加速する現在において、 何処か閉塞感のようなものを最近感じているのですが、 それらのコミュニティーがどう外に向かって行くのかで、 カルチャーの在り方も違ったものになってくるのでしょうか。 そういうことが、今問われているのかもしれませんね。 # by sot-yasuno | 2006-04-30 17:22
映画 「流れる」 を観ました。
この映画には、二つの時間が流れています。 滅び行く文明や文化という、社会的な時間の流れ。 もう一つは、それらを身近かに目撃しつつも、 どうすることも出来ない人々の時間の流れ。 成瀬巳喜男の一貫したリアリズムは、 哀れみを煽るものではなく、 滅び行くものへの愛惜なのかもしれません。 そうやって時代は変化して行くわけで、 ある意味ノスタルジーとは、アイロニーでもあるのでしょうか。
# by sot-yasuno | 2006-04-27 02:43
映画「秋津温泉」は、あまりに美しくそして儚い。
吉田喜重の時代を包含するような知的かつモダンな演出。 息を飲むように美しい秋津の自然を捉えた秀逸なカメラ。 映画全体を高貴でメローに仕立ててしまう音楽。 そして何よりも、この映画のヒロインである、 若き岡田茉莉子は、まるでイコンのようです。 おそらく、これらの要素が絶妙に絡み合い、 男と女の単なるメロドラマを、貴賓ある傑作にしたのでしょう。 どうにもならないことを、 どうにもならないと分かっていながら、 それを人間は繰り返してしまいます。 気付けば、時間だけが無駄に経過し、 そして多くの大切なものを失ってしまうのかもしれない。 失って初めて、その重さを理解するのでしょうか。 或は、失ってしまうからこそ美しいのでしょうか。 おそらくただ言えるのは、 当時の秋津の自然も、ヒロイン新子の貴賓さも、 もう何処にも存在していないということだけなのでしょう。 この映画を観るたびに、そんなことを考えてしまいます。
# by sot-yasuno | 2006-04-26 21:56
ハイカルチャーとサブカルチャーといった、
文化の対立図式が、この世の中に登場したのは、 19世紀ヨーロッパの都市社会においてからだそうです。 高級芸術と大衆芸術は、 それぞれの対比によってお互いを差異化して来ました。 アバンギャルドとキッチュ、前衛と後衛etc.... しかし60年代に、ポップアートの台頭によって、 これらの対比も分割も、非常に曖昧なものとなっていきます。 ついには、80年代のポストモダニズムを経て、 分割という概念は、もはやパロディーと化してしまったそうです。 ただそれらが複雑に入りくみ、交錯した現在においても、 大衆的嗜好を満たすカルチャーと、 社会的価値を持つ先鋭的なカルチャーは存在していて、 どちらもそれぞれに受け入れられるようなコードを有しています。 しかしながら、情報化の急激な加速と進歩によって、 第三のカルチャーが、私たちの目前に瞬く間に現れました。 それらは増殖し、とどまるところを見せず、さらに加速しています。 その第三のカルチャーとは、”日常的な表現”というものです。 具体的には、日常的な記録写真、趣味的なアートや音楽、 そして、今こう自分が書いているような日記的文章etc..... 日常的かつ個人的な表現と言った方がいいのかもしれません。 このような日常的な表現というものは、 確実に昔から存在するものなのですが、 これらの記録やイメージが、 不特定多数の目に触れることはほとんどありませんでした。 しかしネットを利用しさえすれば、 それらの情報やイメージは簡単に流通して行きます。 作品の優劣も記録の必要性も関係なしに、 稚拙な表現でも卑猥な記録でも、 かわいがっているペットの写真でも、 恋人や家族と写っている他愛のない写真でも、 そう誰でも表現者となり、それらを流通させる事が可能となったのです。 この現実は、カルチャーの裾野を拡大し、 表現をある特定の支配から一気に解放しました。 おそらくそういう意味では、進歩であり決して後退ではないのかもしれません。 しかしこれらの日常的な表現の氾濫は、一体何処に向かって行くのでしょうか? かつて60年代に、宮川淳という美術評論家が、 非常に興味深い言葉を残しています。 「(芸術と非芸術の境界を最終的に無化する) 日常への下降 」 「それにもかかわらず、いよいよ鋭くなる芸術と非芸術との間の断絶」 60年代とは状況が全く違いますが、 おそらく私たちは、そのうち気付くのかもしれません。 日常という罠に。 # by sot-yasuno | 2006-04-17 03:10
境界線とは、ぼんやりとした非常に曖昧な線です。
隔てているものを、交叉させたり、掻き混ぜてしまう事さえあります。 流動的で気まぐれであっても、境界線は常に存在しています。 境界線の両脇には、純化された地平が広がっていて、 その地平は、時に私たちを美しい森に誘い、 時に荒野へと私たちを導いてしまいます。 そして、その森の美しさに飽きてしまうか、 荒野に立ち尽くすしかない時、 ある者は、再び元の境界線まで戻り、 またある者は、視界の先にある、新たな境界線に辿り着くのでしょう。 その繰り返しが、芸術の進歩という事なのでしょうか? ふとそんな事を考えてしまう事があります。 # by sot-yasuno | 2006-04-16 03:33
「私は、音を使って作曲をするのではない。
私は、音とコラボレート(協同)するのだ。」 「私は、作曲という仕事を、 無から有を形づくるというよりはむしろ、 既に世界に遍在する歌や、声にならないつぶやきを、 聴き出す行為なのではないかと考えている。」 「あまりに個人の心情にだけ徹する芸術は、 時として、固く結ぼれたままの紐のように他人を拒み、 真の人間的照応を成り立たせない」 初台にある、オペラシティー アート ギャラリーで、 作曲家「武満徹/Vision in Time」 展が開催されています。 20世紀を代表する作曲家を視覚的に捉える展覧会です。 音に対して、常に真摯に向かい合った武満の姿勢とその音楽は、 改めて、私たちの社会に響かねばならないと思いました。
# by sot-yasuno | 2006-04-16 02:23
その人の個が立ちすぎている表現ほど、
表現されているものに普遍性がなく、 しかも時に見苦しさを感じ、その自己顕示欲は不快でさえあります。 それを面白がるかどうかは、個人の自由ですし、 受け取り方も人それぞれでしょうが、 そういうものの氾濫は、自由な表現とは言えず、 おそらく、無責任というカテゴリーに属するのかもしれませんね。 # by sot-yasuno | 2006-04-12 03:15
「デザインの輪郭とは、なんとなく、
具体的なかたちの周りにあるぼわっとしたもの」 「ふつうというのは、椅子は椅子であり、 テーブルはテーブルであるということです。」 「人間は、他人のためにやっているという感情を持ってやると、 汚れてしまいますよ」 「ピラミッドは頂点から組む。 下から組上げても、台形にしかならない場合があるから」 「人間は、関係の美を育んで来た」 工業デザイナー 深澤直人のやわらかな言葉は、 ある意味、ラディカルに、私たちの知覚を呼びさましてくれます。
# by sot-yasuno | 2006-04-12 02:53
写真とは、記録であり、
それ以上でもそれ以下でもないのではないでしょうか。 写真はいかなる抽象性も持たず、記録された現実がそこにあるのみです。 記録は記録でしかなく、記録の連鎖と蓄積が記憶となるのでしょう。 それをある人は芸術と呼び、単なる資料と呼ぶ人もいます。 どう呼ばれようと、どう認識されようと、 記録の領域から逃れることも、飛翔することも出来ません。 写真というものは、私たちが私たちの目で認識している世界よりも、 詳細に、しかもありのままに現実を写してしまうのです。 そう、写りすぎてしまう。 私たちの目が普段認識している世界は、輪郭も曖昧で、 視界はもっとぼんやりしていて、おそらく多くのことが見えていません。 あまりに写真が現実を詳細かつ克明に描写し、 私たちの見えていない細部まで見せてしまうので、 私たちは、それを逆説的に抽象と勘違いしてしまうのでしょう。 でも、そこに開けているのは、ありのままの地平であって、 現実以外の何ものでもないのです。 フォトグラファーがいかに演出した空間であっても、 それはフォトグラファーが演出した現実を、 克明に記録しているにすぎません。 おそらく、その記録が純化されればされるほど、 共感よりもむしろ、違和感を感じるのではないでしょうか。 その違和感は、時に心地良く、時に不快であり、 そう感じた時にのみ、 写真を通じて世界を共有することが可能なのかもしれない。 その残像や輪郭の蓄積が、記憶化を促すのでしょう。 # by sot-yasuno | 2006-04-12 00:11
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